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りりあん (Lyrian 本名未公表 1985年9月21日 - ) は日本の萌え系女性アイドル・歌手。イタリア・ミラノ出身。身長153cm、血液型はA型。スリーサイズはB85 W58 H86。
中野系アイドルユニット「ピュアリティーズ」のメンバーとしても活動していたが、メジャーデビューDVD発売直後に卒業。
レコードレーベルは「アイドルファンド」、芸能事務所はアンフィックスエンターテイメントに所属。
特徴・エピソード
●ミラノにいた頃から日本の女性アイドルが好きで、アイドル評論家を目指し中森明夫に写真同封の弟子入り志願の手紙を書くが、写真を見た中森明夫の勧めで、同氏プロデュースのもと、自身がアイドルとしてデビューする。
●中学生までをミラノで過ごし、イタリア語が堪能。
●おっとり系な不思議キャラから「ポスト小倉優子」と言われる。
●テレビ朝日の番組で語尾に「にゃん」を付けるのをMEGUMIに「にゃんにゃんばっかで、うるさいよ!」とマジ切れされ毎回同じポーズをとる為「もうそのポーズ視聴者飽きたから」と駄目だしを受けた。またアンタッチャブル山崎弘也に「時々“にゃん”付けるの忘れるよね、キャラ設定を無理し過ぎない方がいいよ」とアドバイスを受けた。MEGUMIが自身で考案したポーズを披露するとグラビアでは大先輩にも関らず「可愛くな~い」と言い放ちMEGUMIをたじたじにさせた。因みにこの番組でCDジャケットで着用した衣装を鑑定した所20万円もの値が付いた。
●2005年12月13日03時51分40秒に、彼氏宛のメールを間違ってブログの方に送ってしまい、それが掲載された。
仲道 郁代(なかみち いくよ、1963年2月13日 - )は静岡県出身のピアニスト。やわらかい演奏姿勢と音楽にとらわれない趣味から、料理番組などのテレビ出演も多い。
仙台市生まれ、浜松市育ち。4歳からピアノを始め、小学校5年生のとき第27回全日本学生音楽コンクール東日本第3位入賞。金城学院中学校在学中、父親の仕事の関係で渡米し、ホロヴィッツの生演奏に接して大きな感銘を受ける。
帰国後、桐朋女子高等学校音楽科を経て桐朋学園大学ピアノ科に進み、中島和彦に師事。桐朋学園大学1年在学中、1982年、第51回日本音楽コンクールピアノ部門第1位入賞、増沢賞受賞。
1985年に桐朋学園大学を中退。同年から1987年まで文化庁在外研修員としてミュンヘン音楽大学に留学し、クラウス・シルデに師事。この間、1986年、第42回ジュネーヴ国際音楽コンクール第3位(最高位)受賞。1987年、メンデルスゾーン・コンクール第1位入賞、メンデルスゾーン賞受賞、エリザベート王妃国際コンクール第5位入賞。1988年、村松賞受賞。1993年、第23回モービル音楽賞奨励賞受賞。
1989年からハンブルク・スタインウェイを使用。1990年、ミュンヘンからロンドンへ活動拠点を移す。1999年、カーネギーホールにデビュー。
はじめシューマンが多かったが、ショパンも弾くようになり、90年代後半から、子供のための話を織り交ぜたコンサート、レクチャーコンサートなど、クラシックを親しみやすくする企画を次々と立てている。また2003年からは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲録音を目指してCDリリース中。
若い頃は演奏しながら口ずさんでいた。今も少し残っている。
妹の仲道祐子もピアニスト。
あみんは、岡村孝子(おかむら たかこ 1962年1月29日- 愛知県岡崎市出身)と、加藤晴子(かとう はるこ 1963年1月2日- 愛知県豊川市出身)の2人によるJ-POPのユニット。アルファベット表記は Aming 。代表作となった『待つわ』は現在でも耳にする機会の多いスタンダードナンバーである。
歌うときは、向かって左側に岡村、右側に加藤が立つ。岡村の歌う主旋律に加藤がハーモニーを加える曲が多い。
1980年代前半にシングル4枚とオリジナルアルバム2枚をリリースののち活動休止、2007年に活動再開
名古屋の名門女子大、椙山女学園大学の同級生として出会った岡村と加藤が、意気投合しユニットを結成。
岡村は、愛知県立岡崎北高等学校を卒業して、一浪後に同大学に入学。加藤は、愛知県立小坂井高等学校を卒業後、同大学に入学。2人は1歳違いで、同級生である。
その出会いは、岡村孝子が大学の教室内で、履修届を書く際に、前の席に座っていた加藤晴子の背中をペンでつついて書き方を尋ねた(もしくはペンでつついて消しゴムを借して貰った)のが2人の出逢ったきっかけ(当時出演したザ・ベストテンでの二人の談)。
ユニット名は、さだまさしの楽曲『パンプキン・パイとシナモン・ティー』(1979年、アルバム『夢供養』収録)に登場する喫茶店「安眠(あみん)」から取った。当初は「亜未夢」という漢字を当てていたものの「あくむ」などと誤読されることが多かったため、ひらがな表記に変えた(余談だが、さだまさしが喫茶店の名前にした「安眠(あみん)」の由来は、ウガンダの独裁者イディ・アミンである)。
1981年秋、第22回ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)に『琥珀色の想い出』で出場し、中部北陸大会で優秀曲賞を受賞。だが本選(全国大会)へは進めずじまい。ちなみに、このとき同じブロックからアラジンの『完全無欠のロックンローラー』が本選に進みグランプリを獲得した。
1982年春、第23回ポプコンに『待つわ』で出場。5月16日の本選に進出、グランプリを獲得した。
1982年7月21日、『待つわ』で日本フォノグラムよりレコードデビュー。楽曲が多大なる共感を得て、デュエットによるハーモニーの新鮮さや清潔感と相まって同年のトップセールスを記録するほどの大ヒットとなる。あまりの有名さと分刻みのスケジュールで、大学の授業に出ると教授から「芸能人は来るな」と教室を追い出されるというエピソードもあった。1982年12月31日には第33回NHK紅白歌合戦に出場。
1983年4月25日、ファーストアルバム「P.S.あなたへ…」をリリース。他のアーティストからの提供曲も歌わせたいというレコード会社側の意向と、できるだけ多く自作曲を歌いたいという当人の意向が衝突し、当初は前年の10月にリリースする予定だったものを延期して、あみん側の意向を通した。なお、このファーストアルバムがオリジナル曲中心だったのに対し、次作のアルバム「メモリアル」は全曲がヤマハ音楽振興会所属・出身アーティストによる既発表曲のカバーであった。
1983年5月から全国6か所で初ツアー。だが、この頃から活動をやめようという意見が出始める。当時は「多忙さに伴う学業との両立問題」が理由とされていたものの、本当の理由は違うところにあることが後年になって明かされた。2005年6月12日にBS2(NHK)で放映された岡村のライブ番組内で、加藤がインタビューに答えたところによると、「自分の才能のなさから、音楽業界は自分の居場所ではないと思うようになった」ことが動機で、ただ当時の岡村には言えなかったため、学業との両立を口実に休止を切り出したとのことである。
結局、1983年12月18日、愛知県勤労会館のコンサートが最後の活動となった。このコンサートがファイナルであることはあえて公表されず、翌々日の1983年12月20日にリリースしたアルバム「メモリアル」を以て休止ということになっている。
●来歴・人物
・コーラスを歌っているところをスカウトされ、1971年に本名で歌手デビューする(デビュー前に藤田まことの前座歌手を務めたこともあった)。
・しかしデビュー後にはあまり注目されず、不遇の時代を過ごすことになる。そして1973年には現在の芸名として『絹の靴下』をリリース。妖艶な振り付けやフィンガー・アクションが成功し大ヒットとなり注目される。
・芸名の由来は彼女が6月に再デビューすることが決まっており、「夏に向けて決めよう」→「夏決まり」→「ナツキマリ」となったそうである。
・また一人芝居の印象派は海外公演も行われているとともに高い評価を受けており、彼女のライフワークともなっている。
・2007年10月、パーカッショニストの斎藤ノブと交際中と発表。
夏木マリ事務所
倉木 麻衣(くらき まい、1982年10月28日 - )は、日本の女性歌手。千葉県船橋市出身。LOOP・NORTHERN MUSIC所属。前所属GIZA studio。
聖徳大学附属高等学校から立命館宇治高等学校を経て、立命館大学産業社会学部人間文化学系入学、2005年春に卒業。
倉木の日本の音楽業界への影響
倉木がデビューした1999年の日本の音楽業界は、小室哲哉を頂点とするいわゆる小室ファミリーの勢力が落ち込み、MISIAや小柳ゆき、特に宇多田ヒカルの爆発的なヒットによりR&Bブームが起こり、アーティスト自身の歌唱力が問われる本場アメリカを意識した「本物志向」の時代であった。またポピュラー音楽でも、浜崎あゆみやモーニング娘。、椎名林檎などの台頭により女性アーティストが業界を席巻する群雄割拠の状況でもあった。
当時のブームの影響もありR&Bアーティストとしてデビューすることになる。アメリカの楽曲を意識する曲が多い中、倉木は親しみやすさ・切なさ・馴染みやすさを感じさせる歌謡曲の延長線上としてのR&Bテイストの楽曲によって音楽シーンを圧巻することとなる。ただ、PVや歌唱法などに於いては宇多田ヒカルとの類似性が多く指摘された。実際、宇多田本人も音楽番組にて「私かと思った」との発言をしている。本物志向の中、倉木の囁くような歌唱法は一部反感を買ったが、ブームに乗り、デビューは成功。特に2000年は、オリコンチャートの年間シングル・トータル・セールス1位、アルバムとアーティスト別のトータルセールス2位を記録するなど活躍する。その後も2ndアルバム『Perfect Crime』やベストアルバム『Wish You The Best』がミリオンヒットするなど、コンスタントに楽曲を発表し続けている。
メディアへの出演について
倉木はデビュー当時より滅多に地上波のテレビ番組に出演することを好まない歌手に含まれる。その多くは自身の曲がタイアップされている番組への録画されたコメントでの出演であり、音楽番組への出演は『NHK紅白歌合戦』への3回のみである。
しかし、デビュー当時から比べると地上波への出演は増加している。例えば立命館大学の入学式では、インタビュー無しの写真撮影のみだったのに対して、卒業式には倉木自身がインタビューに答えている。また、紅白への出演も2003年に入ってからである。
その一方で地上波以外への媒体への出演は比較的多い。アルバムなどの発売に合わせてラジオ・雑誌などには多く出演し、ラジオや衛星放送で自身の番組を持っていたこともある。
2004年頃からはインターネットでの露出に力を入れている。芸能人としては早くからBlogを始め、2005年12月からは衛星放送で放送されていた「Mai-K TV」をNTTのフレッツ内で放送を始めている。ただし、他のアーティストと比べた場合、それでもメディアへの露出は少ない。
理由については、ビーインググループの戦略に惚れた事であると言われている。ビーイング系の女性アーティスト(ZARD・小松未歩など)は伝統的にメディアへの露出が極めて少ない。

